この記事では、私が実際に体験してきた毒親エピソードを紹介しています。
このブログを書くにあたってどうしても触れておきたかったのが、私の人生についてです。
最初に告白すると、私は両親から精神的・身体的虐待を受けて育ちました。

ですが、当時のことを思い出すととても辛く、この記事を書いている現在も胃がキリキリと痛み出すほどです。
けれど、自分の人生の記録としても、このブログに書き残しておきたいと思い、執筆しています。
同じ毒親育ちの方にも、共感して頂ければ嬉しく思います。
自分の人生、しかも辛い記憶を文章にするのは本当に難しいですね…
記憶を辿り感じたまま書いているので、読みにくい部分も多いと思います。
なので、記憶の整理をしながら少しずつ、修正・加筆させて頂きます。
【毒親エピソード】アルコール依存症で日常的に子供に暴力・罵声を浴びせる母
私の母は、アルコール依存症で、疑心暗鬼な性格でした。
上記の文章が『でした』と過去形な理由。それは、毒親であった私の母はもう他界してしまっているからです。
それについてはまだどこかしらでお話できたらと思います。
日常的に暴力をふるわれていた
私の母は、毎日欠かさずお酒を飲みます。
普段から気分屋な母ですが、お酒を飲むと豹変し、何かにつけて文句を言い、イライラしていました。
そのイライラのはけ口になるのが、私と妹だったんです。
グーで殴られるというのはありませんでしたが、パーで頭を叩かれたり押し倒されたり、蹴られるのは日常茶飯事。
私と妹は小さい頃から抑圧され、常に母親の機嫌や顔色をうかがって生きてきました。
なので、悪さなんて本当にしたことがありません。
それでも、
- 靴の脱ぎ方が汚い
- 今の話し方が良くなかった
- ごはんをこぼした
- 足音がうるさい
など、そのときの気分で少しでも母をイラつかせたら、深夜まで叩かれ続けることもありました。
私はすぐ謝るのでまだマシでしたが、意地でも謝らない妹は、数時間叩かれたり蹴られたりすることも。
私が妹を庇うと、庇った罪で一緒に叩かれたりすることも多かったです。
酔っぱらった母親が深夜に子供部屋に来るのも常に恐れていました。
母が階段を上がってくる音がいつも怖くて仕方ありませんでした。
悪いことをしていなくても、過去に母をイラつかせた出来事を勝手に思い出しては、寝ている私たちを起こし何度も私たち姉妹を叩きました。
家事をさせられた
母は専業主婦だったのですが、私たち姉妹に家事を強要してくることが多かったです。
洗濯・掃除機・洗い物など、お手伝いというレベルではなく、本格的にさせられていました。
両親がお酒を飲み終わったあとは、〆の袋ラーメンを食べたがるのですが、それもよく作らされていましたよ。
せっかく作っても、
『妹のほうが上手に作れる!お前はラーメンを作るのが下手だ!』
とよく罵れました…
中でも、家事の中で一番辛かったのが、深夜の皿洗いです。
自分たちの晩酌や夜食の洗い物をしろと、酔っぱらいながら深夜に寝ている私や妹を叩き起こしてくるんです。
クラブで疲れていようが、次の日学校だろうが、そんなことはお構いなし。
母を怒らせると、数時間叩かれることになるので、起こされたときは素直に従っていました。
友達と遊ぶことを心よく思われなかった
友達の家へ行くこと、自分の家に友達を呼ぶことは心よく思われれていませんでした。(基準は謎でしたが、たまにならOKという場合も)
友達の誕生日パーティーや、お泊り会は禁止だったので、仲の良い友達グループの中で少しずつ私だけ溝ができて、それがほんとうに辛かった…
夏休みなどの長期休みでは、家にいると疎ましがられ、かといって遊びに行きすぎも怒られ…
どうすれば母は満足してくれるのか、友達と遊ぶのも常に母の機嫌と顔色をうかがっていた記憶があります。
とにかく他人と比較された
母はとにかく優劣つけたがる人間でした。人と比較するのも大好きだったように思います。
私が中学生の頃は、仲の良い友達(頭の良い子数人)のテストの点数を全て聞き出し、私の点数と比較した表を作成して母に提出しなければならなかったんです。
5教科400点以下をとると母に激怒されるので、テスト前は徹夜で暗記してました。
しかし私は、要領のいいタイプではなかったので、その頭の良い友達になかなか勝つことができず、母の機嫌を損ねて怒らせていました。
その友達に、毎回点数を聞くのも本当に嫌で、逃げ出したくなるほど辛かったのを覚えています。
色んなプレッシャーに耐えきれなかったのか、私はテストのたびに発熱する子供でした。
部活や習い事は全て母に決められた
母の方針で、学校の部活(運動部)は絶対にやらなければならないというルールがありました。
何をやるかまで指定されていて、途中顧問の関係で1年だけその部活が廃部なったときには、その1年だけ全く関係ない他の部活に加入させれました。
そして、習い事もしかり。
母は、私たち姉妹をお嬢様に育てたいという謎の思想を持っており(別に由緒ある家柄でもない)、色んな習い事をさせられました。
クラブに習い事、そして塾。
家に帰ってからは、家事と、深夜に叩かれる日々。
全てこなせるハズもなく、全部中途半端でした。(練習する時間がなく、習い事の先生にも怒られて何度も泣きました…)
だけど、結果を出さなければ母に叩かれる。中学・高校時代が一番精神的にも身体的にもキツかったです。
高校時代は、ストレスのあまり毎日常に胃がキリキリ痛みました。
そして、ストレスに心と体がついていけなくなったのか、痙攣して失神するようになりました。(妹も同じく失神してしまう症状に悩まされました)
夫婦喧嘩や、家族の愚痴
夫婦喧嘩も絶えず、怒鳴りあい離婚だとわめきあっていることも多かったです。
母が父を殴り、父が母にやり返し出血したこともありました。
母は、自分の両親との間にもいざこざがあり、お金の話や性の話など、子供の私たちが耳を塞ぎたくなるような話まで当たり前のように聞かされて育ちました。
祖父母に、何年間も会うことすら許されない時期もありました。
学校の行事には不参加
入学式・卒業式・運動会・参観など、基本的に学校の行事は不参加でした。
懇談など、絶対親がこなければならない行事には仕方なく来てくれましたけどね。
卒業式や入学式は、周りが親と一緒にいる時間、自分はどう過ごしていいか分かりませんでした…
理由もなく卑怯者だと言われ続けた
私の母は、とにかく先入観が強い人でした。
母の中で、なぜか私は『卑怯者』というレッテルをはられていて、酔っぱらうとすぐに『お前は卑怯者だ、嘘をついている』と罵られました。
けれど、私の中では嘘をついただとか、ましてや卑怯者と呼ばれる意味が全く分からず、いつもそう言われて叱られるのが本当に苦痛だったんです。
私が小学生の頃から死にたいと思っていた理由の大半が以下の通りです。
私が卑怯者ではないということを、死んだら分かってもらえるのかな?
命までかけたら『卑怯者』じゃないということを証明できるかも
子供ながら、こういう風に思っていました。
いやらしい女だと性を辱められた
私の母は、私たち姉妹の『女』という部分が受け入れられなかったようです。
成長して女性になるにつれて『女を武器にしている』だとか、『いやらしい』などさんざん言われてきました。
私に彼氏ができたときは、『変なことしてるのか』と必要以上に問いただされ、母の持っている避妊具をあげるなど言われたこともありました。
それは、父の前でも平気で言われたり、私が彼氏と電話しているところにきて、わざと避妊具の話を大声でされることも。
心底きもちわるかったし、恥ずかしかった。
そのことが原因で、結婚した今でも自分の『女』という部分を受け入れられないトラウマを抱えています。
【毒親エピソード】自分が一番可愛い、偽善者な父
当時の父は、とにかく仕事人間で、子育てにはあまり無関心だったように思います。
母を怒らせるとめんどくさいと感じていたようで、子供を犠牲にしてまで母の顔色をうかがっているような父親でした。
物にあたる、破壊癖のある父
父は母と喧嘩すると、怒りの感情をどこにぶつければいいの分からず、とにかく壁や家具を殴ったり、物にあたる性格だったんです。
壁や家具に穴が空いたり、物が壊れるのは日常茶飯事でした(父が骨折したこともありました)
けれど、私たち姉妹を日常茶飯事に叩くようなことはめったにありませんでした。
皿や瓶を投げられたときは死ぬ!と思いましたが…
自分が一番大切
子供の頃から現在も感じている違和感。
それは、父が子供よりも自分を大切にしているという事実。
酔っぱらったら訳も分からないことで怒り出す母に、私たちが悪いことをしていないと分かっていても、父は私に
『いいから、謝っておけ。お前が悪くないことは知ってるけど、とにかく謝れ』
と、言い続けました。
それは、次の日仕事で朝早い自分の身を案じてのこと。
早く寝床につきたいから、一刻も早くめんどくさいこの場を収めたい、自分に火の粉がふりかかるのを避けるための言葉でした。
そのとき、私は父親ですら自分の味方ではないことに気がつきました。
お風呂をのぞかれた
私たち姉妹が中学・高校生だった頃、父親はよくふざけて私たちのお風呂を覗いたり、階段を上るときはわざと真後ろにつきカンチョウといってお尻をつつかれました。
これは、私よりも妹のほうがトラウマになっていて、今でもそのときの気持ち悪さが拭えないと言います。
誰の金で生きていると思っている
私の父は、子供に言ってはいけないセリフを平然と言う人でした。
父の逆鱗は、自分がけなされたり、子供に言いかえされたとき。そのときは、目の色を変えて激怒していました。
父が激怒していたときよく言っていたセリフが、
『誰の金で飯が食えて、誰の金で生きていると思っている!』
でした。子供にそんなことを言うなんて狂っていますよね。今では心底そう思います。
母親は大病を患ったとき、私が学校を辞めて介護・家の家事全般を担っていました。
そのときも、『お前はこの家の何に貢献している』ということを平然と言われましたし、母が亡くなったときは私たち姉妹に
『分かっているのか。母親を亡くしたお前たちより、妻を亡くした俺のほうが断然辛いんだからな』
と言われたことを、一生忘れないと思います。
他人に暴力をふるう
父は、自分が一番偉い・強いと思っている人間です。
外出先で車に煽られれば、煽り返し運転手を引きずり出し殴ったり、レストランなどでも気に食わないことがあると店員さんを大声で怒鳴りつけ、店長を呼び出し土下座させる最低な父親です。
警察にお世話になったことも
こういった暴力行為で警察にお世話になったこともありますし、犯罪で補導されたこともあります。
父のことは本当に気持ちが悪いし、人として見下しています。
死人に口なし
母が亡くなってからは、父は解放されたように金遣いが荒くなり、自分にお金を使うようになりました。
派手な車や服。女遊び。とにかく人生を謳歌しています。
そして、私たちにしてきたこと全て都合の良いように母のせいにしているのです。
- 母さんが亡くなって、お前たちにとっては良かっただろう
- 母さんはキチガイだったからなぁ
死人に口なしですよね。自分はあたかも被害者かのように、亡くなった母だけが悪者に仕立てあげているんです。
私の父親は本当に卑怯で偽善者な人間です。
暴力を受けてきた母親よりも、私は今も生きて自分は子供たちの身を案じていたと嘘をつく父のほうが憎いです。
私の毒親エピソード:まとめ
毒親に育てられてきた長い人生。
まだまだ毒親エピソードはたくさんありますが、精神的にも全て書くのは難しいです。
まだ思い出して、書く意欲が沸けば書いていきたいと思います。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。